湯治時々「鯨」(後編)

「いよいよ、頼朝さまが挙兵するらしいぞ!」
「いやいや、天下の清盛さまに弓を引くものなどなかろうに。」
「どうも清盛さまの方も僧兵をお集めになっているとの噂もあるぞ!」
往来の激しい朱雀通りの道端でこんな会話がなされた頃の大和国、そう今の日本は総人口600万。そして、この平安の都には約10万人住んでいたと、文献には記してあります。しかし、そこからはるか遠く離れた奥州の地に、同じように10万人の文化都市がありました。“Japan”と日本が呼ばれるきっかけとなった「ジパング」はこの奥州平泉を中心とした一大都市をマルコ・ポーロが伝えたことによります。
最澄に師事した慈覚大師円仁は、奥州に矢継ぎ早に巨大寺院を建立していきます。それは、陰明思想を取り入れて作られた、平安の都と同じく三方の閉ざされた地に、北に毛越寺・中尊寺、東に松島瑞巌寺、西に立石寺を持つ巨大な都の建設でもあったわけです。その風水の北の砦こそ、平泉館(ひらいずみたち)でした。
10月2日、菅生でP泊をし僕らは平泉毛越寺に向かいました。
「夏草や 兵どもの 夢の後」松尾芭蕉の句でも有名なこの寺は、全盛期は中尊寺をも上回る巨大寺院で、その庭園の大きな浄土池を中心に奥州藤原貴族が優雅な遊びを楽しんだ、と言われますが、今や芭蕉の句ではありませんが、全て夢のまた夢で、跡地にその余韻を静かに残しているだけでした。しかし、松島に浄土を見立て、海岸や小島の優美さに憧れを抱いた当時の人たちの好みをあらわした浄土池の優しい曲線美と立石は、今の僕たちが見ても美しさを驚嘆せずにはいられませんでした。
大きな池と本堂を残しただけの毛越寺。現本堂は、復元図の中に描かれていないもの。当時はどんなに優雅だったのか・・・
松尾芭蕉は奥の細道の中で有名な句を読んだ。句碑は風化して時の移ろいを感じさせる
1時間かけて、一周をし、僕らは中尊寺に向かいました。
「五月雨や 降り残してや 光堂」。
18伽藍ある寺寺の中でも、観光客の一番の注目はなんと言っても金色堂でしょう。過日、NHKの「プロジェクトX」でこの寺の再興をかけた住職や街の信心深い人たちの闘いを見て、一層興味を注がれて33年ぶりにこの地を訪れました。黒のうるしに金箔を貼った何十体もの仏像は、まるで極楽の入り口で「よう、来なさった。」と迎え入れるような出で立ちです。四方には太い金の柱があり、そこには螺鈿が貼ってあります。「プロジェクトX」放送で、昭和の大修理の際に苦労をした一つにこの螺鈿修理があると放映されました。その理由は、螺鈿の原料「夜光虫」は南海でしか取れず、日本近郊では当時米軍占領下の沖縄でしか入手できないから、との事でした。戦争の精神的な傷跡である沖縄の物資も税関を通さなければ入手できなかったが為の苦労でしたが、この陸奥(みちのく)の地方に螺鈿がふんだんに使用されていた、つまりは太い交易の跡が見られたことにも驚きを感じました。この仏像の下には、藤原氏4人のミイラが眠っています。それを550cm四方の金張りの寺院が覆っているわけです。

その方面には疎いので、記するのを憚れますが、日本におけるミイラは、即身仏、すなわち高僧が仏と対話を続けながら成仏するものと思っていました。しかしこのミイラの中には頼朝に首を八寸くぎで刺され晒された泰衡の遺体もあるわけです。
不浄と呼ばれた人の死は、今の日本でも引き継がれています。葬式には、忌中の紙が貼られ、葬式から帰宅した暁には塩を持って清め、その不浄を持ち帰らない風習は、至る所で見られます。が、藤原氏は神聖であるべき寺院の阿弥陀堂の中に不浄である自らの死を持ち込んだわけです。ここには、この阿弥陀堂を極楽浄土とし、その中に自らを番人としておき、この奥州の平安を見守ろうという意図があったといわれています。しかし、それにしても大胆な・・・、これだけの事をしても郷土の人が誇りに思われた寺院。もしかしたらここに安置されたことにも何か秘密があるのかもしれません。
金色堂と共に、奥州藤原氏の関心事は、やはり義経・弁慶のおはなしでしょう。186cm(?)当時としては大男の弁慶は、弁慶堂の中に立ち往生の姿として祭られていました。寺院の下には衣川が、戦の後などとおの昔、とゆったりと流れています。見ごたえのある巨大寺院でしたが、なんせこの後秋田鹿角まで行かなければなりません。そうそうにこの地をあとにして東北自動車道を北へと走らせました。
この湯治の旅の最終日、僕たちは大湯のストーンサークルを見てきました。すぐ脇には、きれいな四角錐の黒又山があります。紀元前数百年縄文中期の神事の場所といわれるこのストーンサークルは、まだ見ぬイギリスのものまでとはいかない物ですが、神秘性を潜んでいます。そしてその横の黒又山は、同時期の人工物の山、すなわちピラミッドであるとも・・・。優れた文化はさまざまな方法で伝達されます。一説にはピラミッドパワーは、「ウナギのタレ」と同じ理屈で中の物が腐らないとも聞いています。「ウナギのタレ」も継ぎ足し継ぎ足しでそのお店の味となっているのですが、古いタレが混ざっても腐らないのは、周囲は上薬を塗っても底は素焼きである点。そのため、中によどみが生じることなくいつも物質が移動しているので、腐らないそうです。方角がぴったりと東西南北を示している、とか言う神秘性ばかりが注目されていますが、案外ピラミッドも中の空気を常時対流させていることがこのような結果を起こさせたものなのかもしれません。家も、空家になって雨戸を閉めっぱなしにすると、空気が腐って家のもちが悪くなるとか言いますし・・・。
しかし、黒又山は、ピラミッドのような王の墓的な性格を持っていません。普通の山を切り崩して、ピラミッド型にしたものです。ですから、腐敗に関しては考える必要性はまったくなかったと思います。ストーンサークルの真中の日時計石の直線状にあるだけの山です。
さて、話がそれましたがこのような高度文化は海路や陸路を通って伝承されたと思います。その一つは、青森側を太平洋側に向かっていったところにある「キリストの墓」があります。もちろん、クリスチャンでもある僕がそれが本物だとは、まったく思っていません。が、「遠いイスラエルの地において、ナザレのイエスと言う男が殺された。」「神の子と名乗る彼は本当にすばらしい男だった。」「さまざまな奇跡を起こしたんだ。」というあからさまに自分たちと違う顔出で立ちの人が語り、その彼が自分たちより遥かに高い文明を使いこなせたら、その地の民は彼を称え、後世まで語り伝えはしないでしょうか?そしてその口頭伝承はいつしか異訳されて今日に伝わりはしなかったでしょうか?そう考えると、ピラミッド伝説のすぐ近くにこのような異人の墓があることは大切な事のように思います。
偶然だよ!関連付けようとしすぎだよ!という声もわからなくはありませんが、たとえば、子どもが「飛行機」を見てあこがれ、それを模造するとしたら、飛ぶためのエンジンを考えるでしょうか?多分そうはしないと思います。彼らは、外形だけの物まねをしようと試み、飛べないけれど同じような形のおもちゃで遊ぶと思います。
新しい文化、未知への憧れはこんな物まねから始まるものではないでしょうか?
紀元前数千年、この地でどのような生活が営まれていたのだろうか? 整然と並べられた石はただ黙するばかり・・・
後ろに見えるのが黒又山。伝記は下記の説明どおり
舞台はそれより数百年進みます。3世紀の大和の国は、未だ未知のミステリーな部分が多々あります。その一つに邪馬台国論争があります。「土地全体で“ここが邪馬台国です”って叫んでるじゃないか」鯨統一郎氏がデビュー作となった「邪馬台国はどこですか?」の中でそう叫ばしている地は、なんとこの八幡平。やまたいと読める、といわれると「ヲォ、なるほど・・・」と思わず言ってしまう単細胞の僕ですが、この荒唐無稽な説は、一概に却下されてしまうようなものではなく、氏のレベルの高い独学調査の後があちこちに出てきます。いわく「至る」と「到る」の違いとか・・・、イヤイヤ余り記すのはよしましょう、未だ読んでいない方の興味を殺いではいけません。

ただ、八幡平の「平」を「たい」と読ませるのは、言語学的にも貴重のようです。「平」は日本平を例にするまでもなく「にほんだいら」と「ら」を失音、欠音することはありません。たしかに我がふるさとの地名にも訛りは幾つもあります。「狩野街道」は「かのけーど」だし、「留場」は「とんば」だし・・・、しかし「平」は「てーら」ということがあっても「たい」となまることはありません。皆さんの地方ではいかがでしょうか?

もしかしたら、未開発のこの山中にやまたいがあるかもしれません。そんな「鯨」さんに惑わされたこの湯治の副なる目的は東北ミステリーツアーでもあった訳です。

紀元前1000年には三内丸山に巨大集落がありました。日本は、海外からの文明を上手に取り入れ、昇華させ、発展してきました。その文明の元は、ユーラシア大陸であることは間違いはないと思います。弧を描く日本。その中で大陸と近いのは、北の北海道であり、南の福岡、又海路のある沖縄です。そういう意味では、北海道や東北に忘れられた優れた文明があってもおかしくはないと思います。それは、アステカやマヤの文明のように、戦うことを拒み滅ぼされたのかもしれません。
素朴で優しい多くの人との出会いが今回の旅でもありました。それは、高度の文明を他人を抑圧するために使いたくない、そんな遺伝子のなせる業かもしれません。そんなことを鑑みると、あながち日本の大きな謎を解く鍵が見つかるのも、この東北の地かもしれません。そんな楽しい夢を見させてくれる旅でした。
どなたかシュリーマンのように、この東北を探求し、新たな遺跡を発見しませんか?