柳田国男氏を辿りながら玉川温泉へ

民話は夜生まれるものなのかもしれません。語り部の「ばーさま」が、年の行かない孫を集めて、夕食の食べ終わった一時に、その地方に伝わる昔からの言い伝えを伝承していくものだったのでしょう。
夜の長い北国は、代々そのような伝承が伝わり民話の宝庫となったのかもしれません。
遠野に生まれた佐々木喜善氏は、その宝石の輝きを誰よりもよく理解し、朝日新聞者の客員柳田国男氏が、遠野を訪れた時その輝きを語り合ったのでしょう。
民俗学文学のベストセラー「遠野物語」のスタートとなりました。今回の第7回玉川湯治療養キャラバンの行きがけに立ち寄る場所は、そんな柳田国男氏の足跡の場所を選びました。

今年のGWは、4月28、29日が土・日で、5月3日-6日が休みということで、カレンダーから考えれば必然的にこの後半に出かける人が多いと言う予測が出来るわけで、果たして道路公団からも5月2日の22時から5月3日の10時まで宇都宮- 矢板間は12時間にわたって最高40Kmの渋滞になるだろうと予測しています。 僕らは、そんな渋滞を避け、それでも小田原厚木道路、首都高環状線、宇都宮−黒磯間などで若干の混雑をうけながらも、3日の午前1時に菅生SAに到着し、そして翌朝5時に起床し、遠野へと足を運びました。その後もそこから2時間の高速、2時間の下道を走り、遠野の入り口に立つ道の駅「遠野風の丘」には9時に到着しました。


遠野といったらまずは観光地のカッパ淵ははずせません。この淵の伝説は、後半に行った昔話館での語り部「菊池玉さん」の話だと、馬を冷やすためにこの川に来た年幼い使用人は、その仕事の最中に退屈になり、馬をそのままにして遊びにいってしまいます。それを見ていた河童は、馬を深みに引き釣り込もうと、尻尾をつかみますが、逆に馬に引っ張られ馬小屋につれてこられます。意外な形で「敵地」に捕獲された河童は、飼い葉おけに隠れていましたが、その家の主人に見つかり、殺されそうになります。しかし、寺の住職に情けをかけられ、川に戻されます。
後日そのお寺が火事になり、みなが駆けつけますが、初期消火が功を奏し、被害にあわないで済みましたが、その消火をしたのは過日情けをかけられた河童であることがわかります。住職はその河童の徳に施され、寺の入り口に河童狛犬を作り、朝に狛犬の頭に水を注いでいるそうです。


そんな話がこの遠野には100以上もあるそうです。東北弁で、少し聞くには耳を肥やさないといけないかもしれませんが、このような楽しい昔話と語り部の方の話し上手で聞きほれながら2話聞いてしまいました。 続いて行ったのは伝承館。昔の家の移築とおしらさまが奉ってありました。おしらさまの伝説は、愛馬に一人娘が恋焦がれていることを知った主人がその馬を殺してしまったところ、娘はその馬の首と一緒に天に上ったという伝説です。お蚕の神さま(?)と一緒になるのは、農業の地だからこその民話でしょう か?
  


ふるさと村は、市外から少し遠い山のふもとにあります。最近はやりの体験型・参加型の施設です。しかしその牧歌的雰囲気は、他の施設を圧倒するものがあります。一日ボォっとしていたい場所でした。
ここには、やはり遠野の民話の中で有名な「座敷わらし」が現れたという民家を移築してありました。
やはり前述の「菊池玉」さんが語った座敷わらしのお話はこうでした。大きなお屋敷の主の元にはたくさんの小作人がいました。ある時、家の周辺の柴刈をしたところ、見たこともないような蛇が出てきました。主は、蛇くらいどこにでもいるから殺してはいけないとたしなめますが、小作人たちはその蛇を殺してしまいます。すると、同じような蛇がどこからともなく現れ、そのたびに殺したら殺しきれないほどの数になってしまったそうです。
その後、家の周りに珍しいきのこが生えました。主は、きのこなどどこにでもあるものだから取ってはいけないとたしなめますが、小作人たちは言うことを聞かず、そのきのこを取ってしまいました。よく見ると同じようなきのこがいっぱいあり、それを全部とって、夜はきのこなべにしようと煮てしまったそうです。
そのころ、大地主さんの隣に住む人が村に帰ってこようと急いでいたところ、村にかかる橋のところで、見たことのない姉妹にあったそうです。その人は、その姉妹に「見たことのない顔だけれど、どこの家の人で、どこに行こうとしているのか?」と尋ねると、その姉妹は「今まで大地主のところにいましたが、今回隣村に行こうとしています。」と答えたそうです。
その人は『ははぁ、さては座敷わらしだな』と思ったそうです。座敷わらしに去られると、その家は没落すると言われますが、はたしてその大地主さんの家は、その夜きのこに中(あた)ってみんな死んでしまったそうです。すると、小作人の家族という人がみなあの山は俺がもらう、この蔵は俺がもらうと、なべ釜まで持っていってしまった、という話でした。
僕が知っている座敷わらしの話は、男の子の話なんですが、こうした姉妹の伝説が彼の地では一番有名な話のようです。


民話の語り部「池田玉」さん


民話の宝庫と言われるだけあって、本当に興味深い話がつきません。でも予定もあります。僕らは遠野に後ろ髪を引かれながら、今夜のP泊予定地「道の駅・のだ」に向かいます。

宮古に向かう国道340号線。番号から言えば、鹿角から玉川温泉に向かう国道341号線の前に作られた国道です。しかし、急な峠道をこえる車両の幅ぎりぎりの道路。対向車がきたらどちらかが待避所までバックしなければならないような道ですが、岩壁に阻まれ、まったく様子がつかめないひやひやドライブでした。その後はリアス式海岸沿いを走る国道34(?)号線。しかし、海岸すぐそばを走りながらも、リアス式という地形だからでしょうか、まったく海が見えません。後半になって、茂師の一部、譜代の先の堀内や新玉川といったところで海が見えましたが、すでに日が落ちてしばらくしてからのことで、景観は期待できないものでした。

   


道の駅のだは、民営化された鉄道の陸中野田駅に隣接しています。しかし、道の駅としての施設はプアーで、特に駐車場は乗降客の送迎駐車場のようでした。同じときにP泊をしていた人は多かったですが、駅構内の駐車場で車の陰で煮炊きしているのはなんか郷愁すらを感じてしまいます。 P泊が楽しくない道の駅の上位にランクされそうです。
そうそうに周囲の車は立ち去っていき、7時に出発の僕らが最後でした。


さて、車を陸中八木駅のそばにある小子内に向かわせます。ここは同じく、柳田国男氏の「豆手帳から-浜の月夜-」と「清光館哀史」の舞台となった場所です。陸中野田駅からの国道45号は、ますます海岸近くを走り、仕切りと津波に関する注意を促す看板が盛んになり、河川には、ポロロッカのごとく川を逆流する津波を防ぐ大きな水門が本当に小さな河川にまでつけられていました。道は次第に高度を上げ高台のいくつかの集落を超えたところに,小子内の小学校が見えました。そこから2つばかりの交差点を過ぎたところを右折し、僕らは海岸に向かって進路を変えると、そこには郵便局がありました。「読んで行きたい 名作のふるさと」という清水節治氏の著書、−教育出版から発行されている本ですが−、この清光館に関して唯一と言っていいかと思われる地図が載っている本です。(訪問記は高橋氏も記しています)。今回も事前の準備はこの本だけを頼りに場所を割り出したわけですが、その中に郵便局の隣の洋品店のご主人が、郷土史にお詳しい旨が書かれていました。しかし、郵便局の隣は普通の民家となっており、「ああ、時代の流れで洋品店は経営が成り立たなくなってしまったのか」と一抹の寂しさを感じたものです。自宅に戻り、再度先生の本を読み返したところ、郵便局は移転をしたということで、僕らはだいぶ違う場所から歩き始めたことになります。


清光館哀史は、「過去からの伝言Web 東北物語伝承館」さまのSiteに全文が載っていますので、ご興味のある方はご覧になってください。(「雪国の春」は既に、絶版になっている模様です。リンク切れの節は管理人までお申し出下さい。全文を読めるようにします。)
簡単に語れば、お盆の日に、この寒村に偶然たどり着いた柳田国男氏一行が、泊めてくれると言った小さく古びれた『清光館』というところで、親切を受け、またその晩女性だけが踊る盆踊りを見たことを前期の「豆手帳から」という朝日新聞の連載に投稿し、偶然6年後再来してみたら、その家は主人が漁の最中の事故で亡くなってしまった、ということを「清光館哀史」に追記したものです。
高校に入った1年の現代国語の教科書は、『清光館哀史』と坂口安吾氏の『ラムネ氏のこと』でした。その二作はとてもインパクトのある話で、タイトルも忘れてしまったのに、なぜかあらすじや文中のいくつかの単語が忘れられず、なんとなく探していた作品でした。上述の清水先生の本で、思い出し、そして何年か後にその地にいけたので感無量でした。


陸中八木駅からは坂道を上がり、そしてしばらく平らな道を行くと、再度下りにかかります。そのあたりから小子内の集落が始まるのでしょうけれど、踏切を渡り、そろそろ不安になったころに、庭仕事をしている人が居られました。理由を話すと、隣の「小子内区民センター」で奉仕している方を推薦してくれました。前にも神奈川大の先生を案内したという御仁は、奉仕の手を休め、井戸の場所まで案内をしてくれました。


上記写真は、1/500地図の井戸の後から清光館に向かう茶線で書き足した道。途中で線のように道が無くなってしまい、その先に清光館があった。昔はこの道だったとは説明してくれた人の談。
下の地図は、1/1000の地図。いずれもGOO!の地図から借用し、加工した。


柳田国男氏が清光館に泊まられた時と、道路が若干変わり、盆踊りを踊った井戸の周囲に家が建ってしまったとのこと。また井戸は利用者もなくなり、危険防止に大きなコンクリが載せられていました。しかし、今も盆踊りは続き、それは国道41号線に面したところにある小学校が会場となっていたが、その小学校も人数が減ってしまったらしく3月で閉校になってしまったそうです。


盆踊りの会場からは、ほんの100歩ほどで清光館跡にたどり着きました。ちょうどJRの鉄橋の真下に、いまは所有者が移り、どなたかの畑のなかに、その一節が刻まれた大きな句碑が立っていました。この清光館跡の直前まで、海岸を走る狭い道路と、現在の道路が平行してあるものの、この途中でなくなった道路が新道の方に急に曲がったとしたら、当時あった清光館は、現況の地主さんの畑の奥半分で、その庭にとうもろこしやかぼちゃがあったとしたら、普通の家としても狭いくらいの面積だったのでしょう。前述の御仁が井戸のところで、旧道はここで海岸のほうに折れていたが、道路が代わって昔道路だったところに家が建ったので、井戸の周囲はスペースがなくなった、と話されたことを思い出します。


1階は家族の住まいで、きっとおじいさんが昨夏以降に亡くなられたのでしょう。海に面した家族の入り口には、盆のちょうちんが飾られていたのではないでしょうか?
清光館と記した表札は、表の道路に面したところにあり、そのまま2階への階段につながっていたのでしょう。

蒸し暑い8月の海風の中を歩いた柳田国男氏一行は、その2階で道行く人を眺め、気配りの上手な女将さんと少し話をし、夕食をご馳走になり終えたころ、子どもたちの盆踊りへと向かう下駄の音を聞いたのかもしれません。木の板で作られ反り返りばたばたと音がする板橋ではなく、コンクリートの頑丈な橋となっていました。


新道でこの地を訪れ場僕らは、今度は巨大な堤防沿いの旧道を歩いて駅に向かいました。小子内の小さな漁港は小船ばかりです。でも、こまめに手入れをされている船ばかりでした。港奥深くまで行き、この先駅につくか不安になれば、道を問われた漁師さんは手を止め、わざわざ道路の入り口まで案内をしてくれました。
柳田国男氏が出向いた明治以来、小子内の人たちは優しく親切な人ばかりなのかもしれません。
遠野物語、そして清光館哀史・・・2つの柳田文学の地を訪れましたが、前者の民俗学文学と後者の単純な旅行メモの場所でした。優しさに触れ、その触れ合った家族の没落を聞いた氏の心情をやるせなさとともに書きつづらるを得なかったのではないかと思ってなりません。
寒村で漁の蓄えだけでは、もしかしたら亡くなったおじいさんの医療代が出なかったのかもしれません。年老いたおかあさんと一緒に奥さんは旅館を営もうと思ったのかもしれません。そうして困窮している中、おじいさんは亡くなり、そして6年の間にご亭主も不慮の事故にあってしまう・・・。
人生って無常だ、はかない、残酷だ・・・。と思っても変わるものではなく、ただ今日生きるために、子どもを育てるために、無心に働く。
そうした中には言葉にできないような苦しみ、言うに耐えられない悲しみがあります。その苦しみ、悲しみを、当時の唯一の娯楽である盆踊りの晩にはけ口として発散した、そんなことを柳田氏は感じ取ったのかもしれません。
痛みがなければバルサム(鎮痛剤)は存在しない。この言葉は、宗教に通じる言葉かもしれません。そして、この小子内はその後も幾度の地震や津波で、浜の地を捨て高台に上がった人もいるのでしょう。なぜ、これほどまでに過酷な運命をと、ひと時は思いながらも、この地の人はささやかな幸福を代償のようにして生きてきたのではないでしょうか。
その大きな痛みと、それに比べればささやかな薬効しかないバルサム・・・、それでも柳田国男氏の言わんとするバルサムが痛いほど判る気がします。そんな僕らが訪れた日は、痛みとは無縁のよく晴れた海のきれいなすばらしい日でした。
寒村での体験は、遠野物語のような他人の話を世に送り出す、物と違った悲しさを僕らに伝えてくれました。


さて、そのナニャドラヤをおいかけ、僕らは北上をし、旧戸来村のキリストの墓に到着をしました。
茨城住の新興宗教の教祖「竹内某」氏。彼が、塚を見て、これこそキリストの墓と言い始め、それがこの地に伝わる盆踊りの歌の歌詞や、またこの地域の風習、そしてこの戸来と言う言葉などから、東北のミステリーとして何十年として言い伝えられています。
しかし、その話の中身は、イエス=キリストでなければならないことはただの一つでもないわけです。ロシア正教や唐時代の中国の景教などが伝来し、その教えに感化された、もしくは教えとともに伝来した高度文化に敬意を表した村の人々が、その文化の一つを取り入れたと思ったほうが正しいようです。
そもそも、たとえばシュメールの文学に端を発した洪水物語は、聖書の中ではノアの箱舟として、また日本の民話の中では赤目地蔵としてなど広がりを見せました。
出雲大社の建築物の形は、交流のあった朝鮮半島や中国大陸のものよりも、イラクのピラミッドやアンデス・アステカの神殿に近いものがあると言われています。この伝承の時代よりはるかに古い時代から、古代の人たちは、僕らの創造よりもはるかに広範囲な地域と情報交換をしていたのでしょう。
また一つに、殺されかかったイエスがよしんば「逃げれた」として、その後宣教を一切しないのは「逃げなければならないほど」熱心だった史実の末期と比べても矛盾があります。もう一つは国粋主義者たちの中には、日本を世界の中心(トップ)に見せるために荒唐無稽な偉人と日本をこじつけることをすることがあることも忘れてはいけないと思います。

しかし、盆踊りが柳田国男氏の言われるところのバルサムであるとすれば、恋歌であるよりは、他の歌であったほうがいいように感じます。もちろん、かの女将さんが踊り、そしてそれを見ていた柳田国男氏が直感的に感じた時代では、盆踊りの元歌の意味などなくなっていたのかもしれません。
しかし、それでも恋歌よりも遠い昔異国の偉人が歌っていた歌のほうが広がる可能性を持っていたように感じてしまうのは、ただロマンにあこがれているからでしょうか?
3箇所の行きたかったところを見学したものの、この2日は朝5時起床で行動を開始したので、まだ若干時間に余裕があります。鹿角に行く途中の十和田湖、その中でも一番美しいと言っても過言ではない奥入瀬渓谷を巡ってみようと思います。しかし、新緑の前にも拘らず、13時を廻ったころでも奥入瀬はめちゃ混みで、車を止めておく場所などありません。ぐるっと一周して、そうそうにキャンプ場に戻りました。
キャンプ場では、クレジットカードが使えないなどのサプライズがありましたが、それでもいつもの「ななかまど19」に車を止めます。さすがにGW、ななかまどゾーンは多くの車でいっぱいです。
実は今晩が、イクスス号100泊目でした。だからと言って何をすることもなく夕食を食べ終わったころから、大雨&雷、そして時折突風。いやはや、なんとも・・・な一晩でした。

5日、朝は昨晩からの雨が残っていましたが、昼ごろからは晴天。でも、朝の雨のため、僕らは岩盤浴をあきらめ、ぶな玉に。一日券を購入し風呂に行ってみれば、見たことのないほどのスリッパの数。また、館内放送ではしきりに、館内への食料の持込の禁止を訴えています。この数の人の弁当の残骸などのごみ処理を考えればやむをえないのかもしれません。
それでも、風呂自身は結構ゆったりと入れました。
6日は礼拝。奈良亀さんという美味しいオカラドーナツを作られるお豆腐屋さんからドーナツを買って礼拝に出席。
開店30分前に到着した僕らを気遣って揚げたてのドーナツをくれた上に、15個の購入に対して3個もおまけをくれた若夫婦。感謝感謝・・・。
そういえば、昔あんとらあでお団子売っていたおばぁちゃんもよくおまけをくれたっけ・・・。鹿角の人は本当に優しく親切で人懐っこい人が多いです。僕らは玉川温泉という場所を通じて鹿角を知りましたが、今では玉川温泉に勝るとも劣らないよさを鹿角に感じています。
いつも数人でしか礼拝を守れない小さな教会ですが、いつまでもこの町で地の塩としての存在をしてほしいと思います。
鹿角のいいところのもう一つは、この写真。国道沿いに花が植わっているのはあちこちで見かけますが、鹿角のその距離、その出来栄えは見事です。お金を掛けて・・・ではなく、市民の意気込み、そして地元を愛する気持ちを感じられて、いつも気持ちよくドライブが出来ます。感謝です。

さて、旅の思いで話ばかりしてしまいました。今回の旅のアウトラインです。
5月2日17:30 出発
5月3日 0:30 菅生SAでP泊
     5:30 同 発
     7:40 北上江釣子IC
     8:30 道の駅 とおの風の丘
          かっぱ淵・伝承館・ふるさと村・昔話村 見学
          道の駅田老・たのはた 経由 道の駅のだ でP泊
5月4日 7:00 同 発
      8:00 陸中八木 着。清光館跡などを見学
     10:00 道の駅はしがみ
     12:15 キリストの墓 着
     13:15 同 発
     13:20 道の駅しんごう
     14:00頃(?) 十和田湖・奥入瀬。
               駐車スペースなしなので、車窓から見学。
     15:35 和井内休憩所
      17:15 八幡平ACPアスピア 着
5月5日 ぶな玉(1日券)
5月6日 花輪教会 礼拝
5月7日 玉川温泉
5月8日 玉川温泉 夕方、鹿角花輪にガソリン給油&食材買い物
5月9日 ぶな玉(1日券)
5月10日 玉川岩盤浴のみ&ぶな玉(1回券)昼食後帰路へ
       13:15 茶立ての清水で10l飲料水給水
       14:00 道の駅雫石あねっこ
5月11日 0:35 強風のため、川口ICで一般道へ
       2:00 このまま帰ると深夜で近所迷惑かと思い、海老名でP泊
全走行距離 1966.5kmでした。
柳田国男氏が、前述の清光館哀史で記した「うかうかと」という表現は、今回の旅の後半のような時間の過ごし方だったのかもしれません。本当に「うかうかと」した数日があっという間に終わってしまいました。いい旅でした。


Blogには、WebSiteとはまた違ったエピソードを記しました。こちらからご覧下さい。